【中動態の世界】
2/3ほど、読み終えました。
現在、主に使われている「能動態⇔受動態」の場合、「意思があるか/誰にあるか」という点が問われます。中でも「自発しているか」。
ただ、これらは結構ややこしくなる瞬間があります。書籍の中で「カツアゲの例」として挙がっていたので、同じくここでも使います。
「私はお金を渡す」というのは、能動態のように感じます。ただ、カツアゲされていた場合、自発的にお金を渡しているのか?というと微妙になってきます。「金を出せ」と言われて出しているのだから”本人の意志”とは言えず、「させられている」つまり、自発ではないから受動態なのか?少し混乱が生じます。
ちなみにここは「能動態でもあるし、受動態でもある」ということになるようです。なんともうやむやな…^^;
さて、ここで教室の中に、戻ってみましょう。
「主体的な態度/意欲」という言葉をよく聞きます。
「授業中だから、算数のこの問題しないと、往復ビンタだからね」と言われて算数の問題を自分から解く。これは主体的か?いや、言えなさそうですよね。
「宿題を出さないと怒るよ」と脅されて宿題をして出す。これは主体的なのでしょうか?これも、言えなさそうです。
月曜日の朝、家でこのまま寝ていて、ゲームしていたいけど、学校に行かなくちゃ…。学校へ行く。これって主体的?いやあ…。
私たちで考えてみましょう。
「今日は、仕事に行きたくないけど、お給料もらってるから…」これって主体的?いやあ…。
こう考えると、「あれ?」となるわけです。主体的なって一体どこまでが主体的?
主体的は、能動態⇔受動態の間では、”意志”と呼ばれるものの中に入るでしょうが、これだけ「責任の所在を明らかにするために意志を明確に」するための態ですが、そもそも意志自体の存在が怪しい。
学問により諸説あるかもしれませんが、”意志”を扱う哲学の世界においては、「自由意志は存在しない」となっています。
なので、意志を追い求めることは、実はナンセンスなことなのかもしれません。
そう考えると、「主体的な…」を評価するということも、同じことが言えるかもしれません。
考古学、言語学、哲学から考察していくと、「主体的を評価する」という教育界の言葉に対し、このような考察ができるかもしれませんね。
さてさて、そこで中動態がどうのような役割を果たしていくのか。
書籍の続きが楽しみです。