【中動態の世界】
後半を読み進めています。
中動態は、存在や出来事等も守備範囲になります。そう「意志は誰にあるのか」ということとは関係がない世界の中動態。
この中動態があるからこそ、その上に哲学が成立して発展していったという話は、かなり納得できた気がします。
確かに、能動態と受動態では説明がしにくい。中動態であれば、すっきり説明ができるような気がします。
また、「完全なる能動は存在しえない」というのは、「自由意思は存在しない」という主張を彫り上げたものであると認識しています。
つまり。外部からの刺激の上で行動が起こるので、そういった意味では”受動”なのですが、その後自分が起こす行動は”能動”であると。なので、様々な行動は、基本的に、能動であり、受動である、と。完全に外部からの刺激がない上での”能動”的な行動は存在しない。ただ、その「能動的な部分の割合を増やすことはできる」という主張が、かなりスッキリ。
また、「自由意志や意志を否定することと自由を追い求めることとはまったく違う」とあり。つまり、自己の本性の必然性に基づいて行動する者は自由である」とのスピノザの主張。能動か受動かという世界ではなく、放下という概念に立って、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、私たちが自由になる道である、と。
学校に話移してみましょう。
「主体的な態度を評価する」ということが難しいことはここなんだと思いました。完全に外部環境からの影響なしに意志を起こす”主体的な行動”は存在しない。外部環境からの影響を受ける瞬間は、受動的な瞬間だから。ただ、その後に起こす能動的な行動の割合を増やし、トータルで「主体的な(能動的な)行動」その割合を増やすことはできる。
完全に能動的な行動に限りなく近づけることはできる。そして、割合だから、その増減を評価することは極めて難しい。そして、子供たち自らの必然性(心からのやりたい/こうなりたい)に基づいて行動するということは自由で、それを追い求めるように仕掛け続けていくことはできる。
”仕組み”が少し、理解できたような気がします。
最後に、「中動態の哲学は、自由を志向する」とし、第8章がしめくくられています。
残すところは、第9章のみ、30ページほどとなりました。いつもながら深いです。