ゆうきのブログ

個人のメモ用の、少し堅めの内容のブログです。

愛着理論は文化を超えて妥当性があるか?

輪読会で読んでいる本があまりに難しいので、当初この章は飛ばそうかな?とも思ったのですが、読み終えてみると、思いのほか大事なことが入っているような気がします。

「ABA」や「TEACCH」と言われると、「外国のアプローチでしょ?」と言われることも中にはあります。そう「所詮、外国での話。日本の文化では馴染まない」という指摘です。しかし、「愛着障害」に関することは言われません。愛着障害こそ、「愛着理論」をベースにしていて、この理論は外国での研究から始まったものです。しかし、日本国内では、そのような指摘を、正直聞きません。でもいずれ、愛着障害のことが深く認知され出すと、「愛着理論は外国発のものだから」という指摘が出てくる可能性があります。そんなときにこの「愛着理論は、文化を超えて妥当性があるのか?」という話は、それこそ妥当性が出てくると思います。
結論を言うと、「ABCDの愛着形成タイプの割合には、多少の差はあれど、国により特段の大きな違いがある…というほどではないと言えそうだ」という話になります。国により、育て方が違います。親の子供への関わり方も、多少違ってきます。それでも、愛着形成に関して言えば、そこまでの大きな違いはなさそうだと。
ということは、「母親の関わり方のせいだよね」という指摘が、今の子供の姿にどこまで大きく影響を及ぼしているかは、なんともわからない、とも言えるのではないかと感じました。母親の関わり方で愛着障害…というより、愛着形成ではなく別なものが二次的な障害になっている可能性があると言えるかもしれません。
つもり「親の関わり方=愛着障害」と考えるのではなく、それも一因かもしれませんが、もう少し包括的な考え方をする必要性があると言えるのではないかと考えてしまいます。「発達障害ではないから、愛着障害では?」「愛着障害っぽい。これは母親の関わり方だな」と安易に繋げてしまう発想の一旦の、掘り下げていくと反駁材料にもなっているのがこの章であるとも思いました。
物事は、そして人の育ちというのは、そんな簡単な話ではない。もっともっと、掘り下げて、遡って考えていく必要があると言えるでしょう。「臨床発達心理士」の考え方は、そういった点が重要視される視点の一つです。だから、そういった「発達の視点が大事なんだ」と、納得したような気がしました。

また、「今の日本は、祖父母と一緒に暮らしていないから愛着障害が増えた」という指摘は、今後出てくる可能性もあるでしょう。その際に、祖父母が一緒に生活していない国でも、愛着形成のABCDの割合がほとんど変化していないことから、その指摘は恐らく的外れなのではないかと、予想されます。
ただ、別の書籍で「共同の子育ての重要性」というものが指摘されています。「母親が全部しなければならない」という考えはあまりよくなく、様々な人が子育てに関わることはとても大事。だから日本の保育所のシステム等は、とてもいいものであると言えると思います。ただこれには、「祖父母が一緒に生活している必要性はあるのか」というと、必ずしもそうではないと言えるでしょう。保育士の人は一緒には暮らしていませんが、共同の子育ての一人であるとも言えると思います。なので、一緒に暮らしているかどうかではなく、「一人で子育てをしようとしていないか」「誰かと共に子育てができているか」ということが大事になってくるのではないでしょうか。

あと、安定した愛着を形成していくには、療育者の感受性ある応答性が大事になってくるのですが、「感受性ある応答性」は、国の文化により多少の違いがあります。だからこそ「愛着障害へのアプローチはこう」と具体的に限定でききらないことに繋がっていると思います。ただ、本章でも出てきたように「鍵は、感受性と安定性が関連しているかどうか」ということが大事になってきます。具体的に限定はできないけれど、でも実践で迷ったときに立ち戻れるのが愛着理論であるとも思っているので、ここをどのように言語化していくか。そこがまだうまく言えず、モヤモヤしています。もう少し、悩んでみようと思います。
ともあれ、ある程度、すっきりした瞬間でもありました。