ゆうきのブログ

個人のメモ用の、少し堅めの内容のブログです。

食育あれこれ

最近、子供たちが食に関するあれこれにハマっているので、一緒に楽しんでいます。
食育も、なかなか面白くて。
例えば来週カレーがあるので、その中に、にんじんがあります。
 3年生の理科で、植物のつくりが「根・茎・葉」からできていることを習います。
では、にんじんは何か?答えは根になります(写真1枚目参照)。
にんじんは「根菜類」に分類されます。
根菜類は、体を温める作用があり、加熱すると甘味が増すことが特徴です。そんな特徴もあって、カレーやシチューに代表されるように、煮込み料理と相性がよいことがわかります。
人参を甘く食べたい人は、火を長めに通すとよいでしょうね。
子供たちは、今はまだ実際に調理をしない子がほとんどでしょうが、理科で習った「根・茎・葉」は、こうやって大人になったときに繋がっていくことがわかります。
ちなみに、食育自体の学習指導要領はありませんが、代わりに「食に関する指導の手引」というものが文科省から出され、その中に学校給食における意義や目標、指導例等が詳しく書かれています。
写真の2枚目は、目標について。
3枚目は、指導例です。3枚目を、少しアレンジして行う予定のものです。
1日の中で様々な場面が子供たちの成長に繋がると思うと、学校生活は、成長のきっかけがたくさん溢れていることを実感します。
以下、参考文献です。
食に関する指導の手引
第1章 学校における食育の推進の必要性:https://x.gd/ByDPU
第5章 給食の時間における食に関する指導:https://x.gd/wbQ54




令和6年度 障害福祉サービス等報酬改定における主な改定内容

福祉関係のお仕事もあるので、厚生労働省からの通知も見ておいかないと…と思い、真面目に確認してみています。
今まで理念として挙げられてきたものが、かなり具体的になって、報酬として示されているような気がします。令和4年度版と比べても、かなり詳細に具体的になったのでは?
なんというか、ちゃんとやっているところがキチンと報酬が受け取れるようになっているような方向に、国として移行していくんだなという印象です。
まあこれだけ、ディ等も乱立している現状も考えると、そうなるのも頷けるような気もしますが…。

愛着理論は文化を超えて妥当性があるか?

輪読会で読んでいる本があまりに難しいので、当初この章は飛ばそうかな?とも思ったのですが、読み終えてみると、思いのほか大事なことが入っているような気がします。

「ABA」や「TEACCH」と言われると、「外国のアプローチでしょ?」と言われることも中にはあります。そう「所詮、外国での話。日本の文化では馴染まない」という指摘です。しかし、「愛着障害」に関することは言われません。愛着障害こそ、「愛着理論」をベースにしていて、この理論は外国での研究から始まったものです。しかし、日本国内では、そのような指摘を、正直聞きません。でもいずれ、愛着障害のことが深く認知され出すと、「愛着理論は外国発のものだから」という指摘が出てくる可能性があります。そんなときにこの「愛着理論は、文化を超えて妥当性があるのか?」という話は、それこそ妥当性が出てくると思います。
結論を言うと、「ABCDの愛着形成タイプの割合には、多少の差はあれど、国により特段の大きな違いがある…というほどではないと言えそうだ」という話になります。国により、育て方が違います。親の子供への関わり方も、多少違ってきます。それでも、愛着形成に関して言えば、そこまでの大きな違いはなさそうだと。
ということは、「母親の関わり方のせいだよね」という指摘が、今の子供の姿にどこまで大きく影響を及ぼしているかは、なんともわからない、とも言えるのではないかと感じました。母親の関わり方で愛着障害…というより、愛着形成ではなく別なものが二次的な障害になっている可能性があると言えるかもしれません。
つもり「親の関わり方=愛着障害」と考えるのではなく、それも一因かもしれませんが、もう少し包括的な考え方をする必要性があると言えるのではないかと考えてしまいます。「発達障害ではないから、愛着障害では?」「愛着障害っぽい。これは母親の関わり方だな」と安易に繋げてしまう発想の一旦の、掘り下げていくと反駁材料にもなっているのがこの章であるとも思いました。
物事は、そして人の育ちというのは、そんな簡単な話ではない。もっともっと、掘り下げて、遡って考えていく必要があると言えるでしょう。「臨床発達心理士」の考え方は、そういった点が重要視される視点の一つです。だから、そういった「発達の視点が大事なんだ」と、納得したような気がしました。

また、「今の日本は、祖父母と一緒に暮らしていないから愛着障害が増えた」という指摘は、今後出てくる可能性もあるでしょう。その際に、祖父母が一緒に生活していない国でも、愛着形成のABCDの割合がほとんど変化していないことから、その指摘は恐らく的外れなのではないかと、予想されます。
ただ、別の書籍で「共同の子育ての重要性」というものが指摘されています。「母親が全部しなければならない」という考えはあまりよくなく、様々な人が子育てに関わることはとても大事。だから日本の保育所のシステム等は、とてもいいものであると言えると思います。ただこれには、「祖父母が一緒に生活している必要性はあるのか」というと、必ずしもそうではないと言えるでしょう。保育士の人は一緒には暮らしていませんが、共同の子育ての一人であるとも言えると思います。なので、一緒に暮らしているかどうかではなく、「一人で子育てをしようとしていないか」「誰かと共に子育てができているか」ということが大事になってくるのではないでしょうか。

あと、安定した愛着を形成していくには、療育者の感受性ある応答性が大事になってくるのですが、「感受性ある応答性」は、国の文化により多少の違いがあります。だからこそ「愛着障害へのアプローチはこう」と具体的に限定でききらないことに繋がっていると思います。ただ、本章でも出てきたように「鍵は、感受性と安定性が関連しているかどうか」ということが大事になってきます。具体的に限定はできないけれど、でも実践で迷ったときに立ち戻れるのが愛着理論であるとも思っているので、ここをどのように言語化していくか。そこがまだうまく言えず、モヤモヤしています。もう少し、悩んでみようと思います。
ともあれ、ある程度、すっきりした瞬間でもありました。

自己調整における二元論と循環的モデル

自己調整学習理論の哲学的基礎の部分です。

循環的対話モデルを紹介します。個人の目標の達成に向かう対話過程として自己調整を描き出しています。

目標があって、自分自身で何かアプローチを選択して行動し、それがよかったのかどうか、ふりかえる(フィードバック)。このモデルは、すごくすんなりくるのではないでしょうか。

こうして眺めてみてもやはり、「目標に向かって」ということが大事。「自己調整が大事だから」するのではなく、あくまで個人の目標に向かっていることが大事。発達段階にもよりますが、できるだけ「将来のなりたい自分」を目標として取る行動でありたいですよね。

とは言ってもいきなり「なりたい自分」と言っても難しい年齢もあるでしょう。その場合は、目先の個人が必要とする「目標」に向かっていくのが、わかりやすくて目標もあってよいと思います。特別活動の学級会の話し合い活動なんか、そうですよね。したいことがあって、目標があって、それに向かって方略を話し合う。終わればうまくできたかどうか、ふりかえる。

大きな括りで考えると、これらの立派な(クラスワイドの)自己調整なんだなあと、感じました。

 

自己調整学習~人はなぜ自己調整をするのか~

自己調整学習への批判という視点からも、書籍では考察が書かれています。

自己調整学習というと、「こうやってしますよ」「こんなにいいんですよ」といったものばかりに目がいきがちです。でも、「そもそもなぜ人は、自己調整をするのか」という視点が大事。

私たちで考えていくとそうですよね。「自己調整流行りだよ。いいもんだからやってみようよ」と言われてするものではないですし、する人はあまりいないと思います。そう「なぜするのか」という視点を抜きにすると、単なるアプローチ論になってしまうんです。ここってすごく大事な点やと思います。

そう「自分が向かう方向に沿って取る行動が、自己調整と結びつく」。端的に述べられているのは、「アイデンティティの確立」が自己調整学習の基本的な動機なんだと。

そうなんですよね。本人がどうしていきたいか。そのために、何が困るのか、どうしていったらいいのか。そのために自己調整が必要になってくる。

やっぱりどこまでいっても「本人ありき」。ここが抜けると、どんな理論も意味を失うんだろうなと、思いました。

なんだかスッキリした気がします。

 

自己調整の循環的段階モデル

Zimmerman&Moylan(2009)は、自己調整理論の特徴に、個人的フォードバック・ループがあるとしました。循環的段階モデルを紹介します。

図 メタ認知過程と動機づけの基本的方法を統合した自己調整の循環的段階モデル

         (Zimmerman& Molylan, 2009 を和訳改変)

自己調整は、【予見・遂行・自己内省】からできています。

この3つがそれぞれ循環することによって、それぞれの要素に足りない部分がわかり改善していくことで、自己調整学習者に近づいていきます。

それぞれの循環の様子と、どこの何に課題があるのかを把握しておくと、次のステップに進む際に参考になるのではないかと思いました。

ASDの子の場合、予見をどのように充実させていくかって、結構ポイントなことが多いんじゃないかな…。まぁ子供によると思いますが。

自己調整の難しさと必要性

「ここは苦手だから、誰かに手伝ってもらおう」

「ここは、こっちの方法がやりやすい」

そういった自己調整、大人でもすごく必要で。

でも、私も含めて、思ったよりできていなくて。

 

メタ認知というか、自己理解が不足しているケースがあって。「苦手と得意」をうまく認識できていないことがある。でもここをある程度認識できると、すごく生きやすさという意味では、違ってくると思う。

「こうしたら、ああなる」という、その後を見通して考える力が不足している場合もある。「いやいや、それ絶対失敗するじゃん…!」というケースも度々みます。まぁこれは、ある程度経験値というものもあるとは思います。

 

大人でも難しい。だからここは結構、難しい部分なのかもしれません。なので、しっかりと実態把握をして、方略もいくらか選択肢を持って、計画的に進める必要があると思います。

 

学校教育の中で行うならば、「自己調整だけを行おう」とするより、各教科の活動を通じてその中で自己調整を行うことが大事になってくるでしょうか。そのためには、理論的な下地が必要ですし、そもそも自己調整を目指す子供を育てる学級経営がベースにあることが大事やと思います。

そう思うと、自己調整は学級経営と、密接に関係しているとも言えるのではないかと思いました。

 

自己調整を行う上では、ジマーマンらの社会的認知モデルが、一つイメージしやすいような気がしました。バンデューラの社会的認知理論をベースにしているものですね。

自己調整に必要な物などが端的に表れていて、わかりやすいです。一つ、図に表してみましたので、掲載します。