【中動態の世界】
なかなか面白くて、1/3ほど一気に読んでしまいました。
中動態は、文法です。
能動態⇔受動態、みたいな感じで、能動態⇔中動態、があります。
正確に言うと、「ありました」でしょうか?
では何故、消えてしまったこの”中動態”が大事になってくるのか。
何故、わざわざ1冊使って述べる必要があるのか。
そういったことが書かれていますが、めちゃくちゃ面白い。
全部を読んでいないので今の時点で断定することが難しいのですが、それでも、少し読んだところの感想をまとめます。
「能動態⇔受動態」と「能動態⇔中動態」は、少し対比の仕方が違います。
なので、能動態は前者と後者では違ったものになります。
前者は「する⇔される」です。
ここで何が大事になっているのか?それは「意思」です。
自らの意思であるかどうかが、とても大事になってきます。
どうしてかというと、それは「責任の所在」に繋がるからです。
ただ、全ての行動が「明確な個人の意思のもと起こっているのか」というと、そうではありません。
ボーっとしていると、ついやっていることって、誰でもたくさんありますよね。
そう、動詞を「能動態⇔受動態」で分ける現在社会にとっては、意思があるかどうかがとても大事になってきて。
そして、言語の影響って、とても大きいです。
毎日毎日、自然に使い続けるものです。
言語が「何に重きを置いているのか」というのは、そのまま社会に、それも自然と、人々にとって無意志に反映されていきます。
様々な物が「それは自分で起こした行動だ。そこには意思があったのだから、あなたの責任だ」という話がどうしても増えていってしまうと思います。
教室にいる、ADHDの子なんかそうで。
先生に言われて「やめよう/控えよう」という”意思”はあっても、意思とは関係なくつい”衝動的に”体が動いてしまうときってあると思います。
でも、「自分で起こした行動なのだから/自分の意思でしたこと」として、「責任の所在はその子にある」となり、注意されます。
そういった構図を、どうしても生んでしまいがちになると思います。
ここからはかなり個人の想像の域を出ませんが、こういった言語の影響により、「不寛容な世の中」を作っている可能性もあるんじゃないかと思いました。
だから、「当たり前を疑うこと」の大切さを、改めて感じました。
文法を調べる、学ぶというのは、こういった風に観方を変えて物事ができるんだな、という風に、かなり驚いています。
なかなか衝撃的な1冊でもあります。
引き続き、読み進めていこうと思います。